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香港の反乱2019 抵抗運動と中国のゆくえ 訳注  5

香港の反乱2019 抵抗運動と中国のゆくえ 訳注  5

 


第三章

<1> 2003年7月1日のデモ 民間人権陣線の呼びかけで毎年恒例の返還記念日デモがおこなわれたが(本章訳注<7>参照)、基本法23条にもとづく国家安全条例制定の動きへの不安、そして年初の重症急性呼吸器症候群(SARS)騒動による不景気への不満もあいまって、主催者の予想をはるかに上回る参加者が街頭に進出した。デモ隊が午後4時に解散地点の香港政府庁舎に到達した時点で、まだ多くの参加者が出発地点のビクトリアパークで出発を待っていた。主催者は、参加者が10万人を超えた時点で参加の自粛を市民に訴えざるをえなくなったが、それでも参加者は増え続けた。夜七時ごろには、主催者は50万人が参加したと発表した。警察も、1989年天安門事件に抗議する100万人デモ以来の参加者に達したことを認めた。
デモ隊が反対した「国家安全条例」案は、香港基本法23条を具体化させるための立法化として、香港政府によって2002年9月に提案されたもの。香港基本法23条には「香港特別行政区は国家反逆、国家分裂、反乱扇動、中央人民政府転覆および国家機密窃取のいかなる行為も禁止し、外国の政治組織・団体が香港特別行政区において政治活動をおこなうことを禁止し、香港特別行政区の政治組織・団体が外国の政治組織・団体と関係を持つことを禁止する法律を自ら制定しなければならない」と規定されている。
香港政府は、7月1日の反対運動の高揚に直面して、三項目の修正(①「中国で禁じられた団体の香港の下部組織を違法とする」という部分の削除、②「緊急時には警察が裁判所の捜査令状を持たなくても立ち入り検査を行うことができる」という部分の削除、③「国家機密の違法な公開を禁じる」という部分に「公共の利益のため」をという理由を追加)を発表し、何とか立法院での採決に持ち込もうとした。当時の立法院は、定数60のうち、同法案の審議に反対する民主党派が23議席、親中国派与党の民主建港連盟が22議席、財界を代表する与党自由党が8議席などという構成になっていたが、キャスチングボードを握る自由党が「今年末までの審議延長」を決めたため採決は不可能となった。
<2> 北京に戒厳令が出た直後の1989年5月21日に、香港で中国民主化運動に連帯する「100万人デモ」がおこなわれた。
<3> 世界29都市での連帯集会 19年6月10日付『立場新聞』によれば、ニューヨーク、サンフランシスコ、ロサンゼルス、ワシントンD.C.、シカゴ、バンクーバー、トロント、オタワ、ロンドン、キャンベラ、メルボルン、シドニー、ベルリン、東京、台北、コペンハーゲンなどで集会が開かれた。
<4> 中學反送中關注組 反送中運動には多くの中高生が参加した。「關注組」とは「〜を考えるグループ」といった意味で、各学校には、「反修例關注組」「反送中關注組」などという名称をつけた反対グループが形成され、9月の学校包囲「人間の鎖」行動などを主導した。11月11日には、中高生の反送中団体322が署名した『中學生抗爭五個月宣言』が出され、闘争の勝利まで50年間でも闘うという決意が明らかにされた。
<5> このときの「違法集会」に参加し、他の者への参加を扇動したとして、2020年12月2日に黄之鋒、周庭、林朗彦の元デモシストメンバー3人が、それぞれ13カ月半、10カ月、7カ月の禁固刑の判決を受け収監された。
<6> 日本にも、G20サミット期間中に香港から学生らが来日して、大阪市内で集会や街頭パフォーマンスなどの行動を展開した。大阪市内で開かれたG20反対集会でも、香港の若者が連帯のあいさつをおこなった。
<7> 香港「返還」記念日の7月1日には、97年7月1日の返還日当日の3000人規模(主催者発表)のデモ以来、毎年、香港島の中心部を政府本部まで行進する数百人規模のデモが行われてきた。2003年の50万人デモ(本章訳注<1>参照)以降、参加者は数万から多い時で10万単位となり、時局に関する要求に加えて、普通選挙の実現が訴えられることになった。
<8> 泛民が主導する民間人権陣線がこのときにデモで掲げた「重啓政改」(選挙改革のやり直し)とは、2016年立法会と2017年行政長官選挙の選挙制度について改正する必要があるかどうかを議論・決定する手順をやり直せ、という主張だった。この二つの選挙については、第二章訳注<1>を参照のこと。基本法のルールに沿った「重啓政改」でもう一度おなじ手順でやり直したとしても結果は同じことが予想されたことから、民陣の「重啓政改」という主張はラディカル派や香港本土派から不評を買っていた。
<9> おそらく「我要真普選」(真の普通選挙を!)という雨傘運動で叫ばれたスローガンのことだろう。当日のデモでは、著者の友人らのグループだけでなく、泛民や香港本土派の政党、学聯や社会運動団体などは全車線がデモ用になった車道上にブースを出して、そこを通る55万人のデモ隊を鼓舞したり、それぞれの主張を訴えたり、スローガンを叫んだりしていた。
<10> 旧植民地時代の旗であるいわゆる香港旗は、イギリスによる植民地支配を象徴する旗で、1959年から1997年の主権移譲まで使われた。旗の左上にはユニオンジャック、右半分にはライオンと竜の紋章があしらわれている。
<11> 梁繼平は、香港大学学生誌『學苑』の編集長時代に同誌が編集した『香港民族論』(2014年9月出版)の執筆者の一人。同書は15年1月の施政方針演説で梁振英行政長官(当時)によって名指しで批判された。大学卒業後に、ワシントン大学大学院修士課程で学んでいるときに今回の運動が発生したため、香港に一時帰国し、そのまま運動に参加して7月1日の立法会突入に参加した。立法会からの撤退後すぐにアメリカに戻った。2020年6月に暴動罪などの容疑で起訴されている。なお梁の立法会占拠中の発言の日本語訳はこちらのブログで紹介されている。http://attackoto.blog9.fc2.com/blog-entry-464.html
<12> 7月21日の元朗白シャツ襲撃事件の一周年に、公共放送RTHKのドキュメント番組『鏗鏘集』で放映した番組は、広東語版と英語字幕版がYouTubeで公開されている。
広東語版 「7.21誰主真相」(7.21の真実は誰の手に)
https://www.youtube.com/watch?v=or4B7NpHwbY&list=FLDTdlTjnG_yw80U1A3v5lBQ&index=9
この番組を編集したRTHKの蔡玉玲は、番組で事件にかかわったとされる人物の車のナンバープレートを特定するために虚偽の申請をしたという容疑で、2020年11月3日に逮捕され(当日保釈)、11月10日に起訴された。彼女がRTHK労組の元委員長ということもあり、出廷の際には香港や台湾のメディア関連労組が支援に駆け付けている。2021年1月14日に次回の審理が予定されている。
<13> 雨傘運動の旺角事件 2014年10月3日、三つのオキュパイ地区の一つだった旺角オキュパイ区域に対する襲撃事件。午後から多数の襲撃者がオキュパイ参加者と故意にトラブル起こし暴力事件に発展した。原注14の記事によると、襲撃者は(恐らく)中国政府機関によって雇われた深水埗を拠点とする暴力団メンバーらで、一人あたり、チンピラには800香港ドル、ベテラン組員1,500〜3,000香港ドル、組長には1万香港ドルの日当が支払われたという証言を紹介している。当初、警察は襲撃者らを厳しく取り締まることはせず、夕方になって仕事帰りの労働者らがオキュパイ参加者の支援に駆け付けた頃になってやっと阻止選をはって対立する双方を引き離した。この日の衝突は夜中まで続き、夜10時過ぎには梁振英行政長官が記者会見で、オキュパイに賛成か反対かにかかわらず、衝突現場からすぐに退去するよう呼びかけた(『香港雨傘運動 プロレタリア民主派の政治論評集』第三部参照)。翌日未明にかけて20名近くが逮捕され、警察発表ではこのうち8名が暴力団関係者であった。
<14> 「民衆の歌」(Do you hear the people sing?) ミュージカル「レ・ミゼラブル」の劇中歌。フランス七月王政打倒のため1832年に蜂起したパリ市民や学生らが政府軍を待ち受ける場面で歌われる。
雨傘運動や2019年の反乱の中でもしばしば歌われた。空港座り込みの際に「民衆の歌」が歌われた場面については、以下のサイトを参照すること。
https://www.businessinsider.jp/post-196488
<15> 廉政公署の設立 廉政公署は、汚職を取り締まる独立機構として1974年に設立された。設立のきっかけは、汚職容疑をかけられていたイギリス人総警司(日本の県警本部長級に相等)ピーター・フィッツロイ・ゴッパーが1973年6月に、シンガポール経由で英国に逃亡したことに対して、学生・市民・労働団体を含む幅広い大衆的な抗議運動が発生したことにある。60年代から警察と暴力団との癒着が問題になっていたことに加え、73年には7月7日の釣魚台(尖閣諸島)防衛集会に参加した学生らに対する警察の血の弾圧への怒りなど、警察への反発は高まっており、反汚職運動の盛り上がりに危機感を感じたイギリス本国は、74年4月にゴッパーを逮捕し香港に送還した。75年2月、香港の裁判所は4年の実刑判決を下した。
<16> キャンペーンの中では、どの店が「黄色陣営」(抗議行動を支持派)なのか、そしてどの店が「青色陣営」(親北京派)なのかを表記した地図が出回った。
<17> 北角(ノースポイント) 香港島北東部にある商業・住宅地区で、対岸の九龍半島と往来するフェリー乗り場のある港町。以前から中国本土出身者の親北京派住民が多い地域として知られていた。トラムの折り返し地点でもある。
<18> その後、デモ参加者の中には右目に眼帯をしたり、ガーゼを当てたりして、彼女への連帯を示す人々が多く見られた。
<19> 付国豪は国内の保守強硬派で知られる「環球時報」の記者。徐錦煬は深圳市公安局に同姓同名の警察官がいることが後日の調べで分かっている。
<20> 警察の特殊部隊が8月31日夜10時半ごろ、地下鉄の太子駅に入って、構内に止まっている電車内にいた乗客の頭を警棒で殴りつけた。電車の外にいた警官らは、乗客に催涙スプレーを噴射した。駅構内では、市民の悲鳴や「黒警!」(警察はヤクザだ)との怒号が響き渡った。しかもこの後、警察は負傷者を太子駅からではなく、特別列車で別の駅に移送してから病院に搬送するという行動をとった上、この事件における負傷者数の発表が当初警察発表と消防発表で3人食い違っていたことから、この3名は警察により殺害されたと抗議行動参加者や多くの市民が信じた。封鎖された太子駅の入り口には、祭壇が作られ、白い献花で覆い尽くされた。訳者が9月中旬に太子駅を訪れたときも、次から次へと白い花を持ってくる人が絶えなかった。今もこの事件を祈念して毎月末に献花する人が絶えないが、旺角警察署と隣り合っているためにすぐに警察が来て献花を妨害、撤去するため、2019年11月の区議会選挙でこの地区から立候補して当選した民主派区議・林兆彬らは毎月月末に献花された花を回収して、新界地区の沙嶺にある公立無名墓地の無名墓碑に供えるとりくみを継続してきた。
<21> 訳者が2019年9月中旬に香港を訪れたとき、運動に参加している10代の若者から、中学(香港は中高一貫)での運動の状況を聞くことができた。彼から聞いた話を紹介したい。
9月2日には授業ボイコットや学校ストライキが呼びかけられていたが、実際に行動に移せたのは大学生だった。中学では、教師の多くもストライキに反対で、学校からの処分の脅し、親からの圧力もあって、個人としての参加はあったが、ほとんど組織的にはストライキに参加できなかった。私は仲間とともに、卒業した中学校近くの広場から中学生にエールを送る行動を行った。したがって、9月9日には、学校ストライキではなく、学校を生徒たちが取り巻くヒューマン・チェーンの行動に切り替えられ、約200の学校で実施された。授業が始まる前の時間帯を使って、ほぼ全員が黒いマスクをして、学校の周囲をヒューマン・チェーンで取り囲んだ。しかし、一部の学校では、道路の向こうから非難の声を浴びせられる場面もあったとのこと。
9月9日の高校生によるヒューマンチェーンの動画は、以下のyoutubeサイトで見ることができる。
“Hong Kong students form human chains as protests continue”
https://www.youtube.com/watch?v=KiMZA1OUzUc
<22> 緊急状況規則条例 香港が英国の統治下にあった1922年1月末に、国民党系の海員労組「中華海員工業聯合總會」が発動した賃上げストライキを弾圧するため、同年2月末に制定された法律。海員ストは56日間にわたって続けられ、港湾だけでなく広く香港全体に拡大し経済を麻痺させ、最終的に賃上げをかちとった。
この条例は、行政長官および行政会議(日本の閣議に相当)が「緊急事態もしくは公共の安全に危害が及ぶ状態にある」と判断した場合、行政長官は立法会の審議を経ず、公衆の利益に合致するあらゆる規則を制定することができると定めている。通信や交通の制限、拘束者の勾留延長、財産の没収、強制労働、検閲などが想定され、「実質的な戒厳令に等しい」との批判も根強い。過去には、英植民地時代の1967年に、工聯会(中共系ナショナルセンター)の文革派が爆弾闘争を展開し、市民を含む51人の死者を出した六七暴動の際に発動され、政治的なビラの貼り出し禁止や出版の差し止めなどの措置がとられた。
<23> 11月の「三罷」スト 11月11日の月曜日から16日の土曜日まで6日間の「三罷」ストを呼びかけ、早朝からMTRや通勤バスの経路などでの阻止行動をおこなった。それぞれ11日「黎明行動」(逮捕者287人)、12日「破曉行動」(逮捕者142人)、13日「晨曦行動」(逮捕者224人)、14日「曙光行動」(逮捕者不詳、以下同じ)、15日「旭日行動」、16日「榮光行動」と名付けられた。警察は厳重警備体制を敷いた。初日の11日の早朝には香港專業教育學院柴灣院校の21歳の学生、周柏均さんが警官にわき腹を銃撃された。13日には70歳の清掃労働者が、デモ隊が投擲したレンガが頭部に命中し死亡。夜にはデモ参加者とみられる黒シャツ姿の男性がビルの5階から墜落して死亡した。この一週間の動員に続き、18日の月曜日には理工大学に対する警察の包囲を突破する市民の動員「黎明行動2.0」などが呼びかけられた。
<24> 香港理工大学での闘いについては、香港の英字新聞《South China Morning Post》の動画ニュース“Hong Kong's PolyU siege : From beginning to end”などで観ることができる。
https://www.youtube.com/watch?v=QM7N9XICfes
また2020年9月末には、この闘いを撮ったドキュメンタリー映画『理大圍城』が香港で公開されているが、国安法施行以降は上映活動も厳しくなっている。
<25> 香港理工大学は、九龍紅磡(Humg Hom)地域にあり、MTR東鉄線・紅磡駅からつながる陸橋が、九龍半島中心部と香港と中心部をつなぐ幹線道路「香港海底隧道」の九龍側の出入り口の上に架かっていることから、この陸橋の上から物を落とすことで交通を遮断することができた。MTRの東鉄線は九龍半島南端中心地の紅磡駅から北上してベッドタウンの新界地域を経由して中国との境界駅である羅湖駅までを結ぶ線。中国大陸からの直通列車や貨物列車なども走る。
<26> 「自由か、それとも死か」は、アメリカ独立戦争の指導者パトリック・ヘンリーがバージニアの下院で行った演説の中のことば。「歴史は私に無罪を宣告するだろう」は、キューバのフィデル・カストロ元首相が、1953年7月26日のモンカダ兵営襲撃に失敗したあと、裁判にかけられた際に自己弁論で述べた「私は無罪釈放を求めない。私を断罪せよ。歴史は私に無罪を宣告するだろう」という有名な一節から引用したもの。
<27> 下水道を使っての脱出については、以下のBBCニュースに詳しい。
「デモ参加者、下水道を通って大学から脱出図る 香港」
https://www.bbc.com/japanese/50498426
 


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