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『香港の反乱2019 抵抗運動と中国のゆくえ』訳注 1

『香港の反乱2019 抵抗運動と中国のゆくえ』訳注 1

 

日本語版序文
<1> 2019年の香港反乱を積極的に支援してきた実業家の黎智英(ジミー・ライ)は、自らが1995年に創刊した日刊紙「蘋果日報」(アップルデイリー)でも積極的に反乱運動を報じてきたが、19年8月〜10月に三回の違法デモの組織・参加の容疑で20年4月に公安条例違反で逮捕(以前なら罰金刑で済んだ)。同年6月末から施行された国家安全維持法違反容疑で8月にも逮捕(会社の経営陣や周庭ら9人が逮捕、同社も家宅捜査)。12月に別件の詐欺容疑で逮捕され収監。直後に「外国と結託して国家の安全に危害を加えた罪」国安法違反の容疑で起訴。21年2月の収監中に前年8月の活動家らの台湾逃亡を支援した容疑でも起訴。違法デモ容疑は4〜5月に合せて実刑20ヶ月の判決。6月には同紙編集長の羅偉光、グループ統括会社「壱媒体」の張剣虹CEOら五人も起訴・収監され、関連会社三社の資産1800万香港ドル(2億5000万円)が凍結、事業の継続が困難になったことから6月24日付で廃刊を決めた。最終号を販売する街角のキオスクには廃刊を惜しむ市民による長蛇の列が朝早くから見られた。その前日には主筆の楊清奇(ペンネーム「李平」)も外国勢力と結託して国家に危害を加えた容疑で逮捕されている。「蘋果日報」は民主派や本土派を公然と支援する唯一の日刊紙として報じられているが、本書の随所でも述べられているように、米大統領選挙ではトランプを公然と支持する論調を掲載するなど、右翼本土派のプロパガンダ紙という性格もある。2012年2月には「中国人は香港の財政を貪るイナゴだ」という嫌中ヘイトの意見広告を掲載するなど人権の観点からも問題が多い。
<2> 四・五天安門事件 
1976年1月に死去した周恩来を4月4日の清明節に天安門広場で献花して追悼しようとした人々の動きは、四人組をはじめとする当局批判も展開する民主化運動の様相を呈した。当局がこれを「背後で鄧小平が操る反革命運動」として暴力的に弾圧し、400名近くが逮捕された。89年6月4日の天安門事件と区別するために第一次天安門事件とも呼ばれる。78年12月の中共第一一期三中全会(三中全会)での鄧小平復活で事件は名誉回復。四・五天安門事件を契機に壁新聞(大字報)で主張する「民主の壁」運動などの民主化運動も盛り上がった。オピニオンリーダーの一人である魏京生は三中全会直前に、鄧小平指導部の「四つの近代化(工業・農業・国防・科学技術)」に対して、政治の分野における「第五の近代化」=民主化を訴えた。また79年1月の旧暦正月に民主の壁で「飢餓と迫害に反対し、民主と人権を要求する」と訴え、北京の農民一千人のデモを組織した傅月華が逮捕された。3月29日に魏京生が逮捕され、翌30日に開かれた胡耀邦総書記の主催する理論会議で鄧小平は「社会主義の道」「プロレタリア独裁」「共産党による指導」「マルクス・レーニン主義と毛沢東思想」という「四つの基本原則を堅持する」という演説を行い、民主化弾圧に乗り出す。民主の壁も禁止され、10月には魏京生が15年の禁固刑の判決を受けた。

<3>『吶喊』は、1923年9月に北京で発行された魯迅の最初の作品集。冒頭に収録されている「自序」で、若いころに留学した日本で医師の夢をあきらめて文芸運動にのめりこむも、世間からの反響のなさから厭世観にあった魯迅に小説の執筆をすすめた友人の銭玄同(自序では金心異と呼ばれている)とのエピソードを次のように記している。なお文中に登場する「主将」とは「新青年」の創設者である陳独秀のこと。

 「どうだい、君(魯迅)は何か文章でも書いてみては……」
 私には、彼の言う意味がわかった。彼らは「新青年」という雑誌を出している。ところが、そのころはまだ誰も賛成してくれないし、反対するものもいないようであった。彼らは寂寞におちいっていたのではないか、と私は思った。だが、言ってやった。
 「かりにだね、鉄の部屋がるとするよ。窓は一つもなく、こわすこともできんのだ。なかには、熟睡している人間がおおぜいいる。まもなく窒息して、みんな死んでしまうだろう。だが、昏睡状態からそのまま死へ移行するのだから、死ぬ前の悲しみは感じないんだ。いま君が、大声を出して、やや意識のはっきりしている数人のものを起こしたとすると、この不幸な少数のものに、どうせ助かりっこない臨終の苦しみを与えることになるが、それでも君は彼らに済まぬと思わぬかね」
 「しかし、数人が起きたとすれば、その鉄の部屋をこわす希望が、絶対にないとは言えんじゃないか」
 そうだ、私はむろん、私なりの確信はもっているが、しかし希望ということになれば、これは抹殺できない。なぜなら希望は将来にあるものであるから、絶対にないという私の証明をもってして、有りうるという彼の説を論破することは不可能だからだ。そこで結局、私は文章を書くことを承諾した。これがすなわち、最初の「狂人日記」という一篇である。
 思うに私自身は、今ではもう、切なさが突き上げてきて声になるといった人間ではなくなっている。だが、あの頃の自分の寂寞の悲しみが忘れられないせいでもあろうか、時として思わず吶喊が口からでることがあるが、せめてそれによって、寂寞のただなかを突進する猛士に、彼が安じて先頭をかけられるよう、慰めの幾分でも与えられたらとおもう。私の吶喊の声が、勇ましいか悲しいか、憎々しいかおかしいか、そんなことは顧みるいとまはないのだ。ただ、吶喊であるからは、主将の命令はきかないわけにはいかなかった。…(略)…当時の首相が、消極をきらったためであるが、また私自身としても、それで自分が苦しんできた寂寞を、私の若いころとおなじように甘い夢を見ている青年に伝染させたくなかったのである。
(『阿Q正伝・狂人日記』竹内好訳、岩波文庫)より抜粋

區龍宇の日本語版序文にも、魯迅の吶喊の思想が通底していると言える。

<4> 2019年8月18日と8月31日、10月1日の三度の違法デモを呼びかけ参加した容疑で、2020年4月18日と5月28日に15名の泛民の政治家や関係者に実刑判決が出た。
【21年4月16日の判決】20年8月18日のデモに関連して、梁國雄(18カ月)、李柱銘(11カ月、執行猶予2年)呉靄儀(12カ月、執行猶予2年)、何俊仁(12カ月、執行猶予2年)、李卓人(12カ月)、黎智英(12カ月)、區諾軒(10カ月)、何秀蘭(8カ月)、梁耀忠(8カ月、執行猶予2年)に実刑判決。20年8月31日のデモに関連して、黎智英(8カ月)、李卓人(6カ月))楊森(8カ月執行猶予1年)の実刑判決。
【21年5月28日の判決】20年10月1日の国慶節の抗議デモに関連し、黎智英(上記判決と合算して20カ月、以下同)、楊森(14カ月)、何秀蘭(14カ月)、單仲偕(14カ月、執行猶予2年)、李卓人(20カ月)、何俊仁(18カ月)、梁國雄(22カ月)、陳皓桓(18カ月)、呉文遠(14カ月半)、蔡耀昌(14カ月、執行猶予2年)の実刑判決。
なお、これら泛民政治家・活動家以外にも多数の本土派の活動家やデモに参加した市民らが弾圧されている。21年2月初めの時点で香港警務処処長(警察制服組トップ)鄧炳強は立法会で、20年12月末までにデモなどで1万200人を逮捕し2450人を起訴、940人余りが司法手続きを終え、190人余りが服役中であることを明かにした。
また国安法施行後1年の21年6月末現在で117人が同法で逮捕され、六四人が起訴されている。20年9月に予定されていた立法会選挙にむけて、民主派や本土派が候補者統一のために20年7月に実施し、のべ61万人の有権者が投票に参加した。これに対し、21年1月6日に香港警察国家安全処は予備選挙の立候補者や企画関係者ら55人を逮捕。予備選挙の参加条件として、政府予算案などを否決して政権機能を麻痺させる計画に同意することなどがあり、当局はこれを「国家転覆」と結びつけた。「香港ポスト」によると、この計画は、2014年のオキュパイ・セントラル(第一章の訳注<13>参照)の提唱者であった戴耀庭が20年1月に蘋果日報に寄稿した「真攬炒十步」(死なばもろとも計画への十ステップ)がもとになっているという。「計画は10のステップからなり、第2ステップが民主派による立法会での35議席以上の獲得、第5ステップが財政予算案の否決と行政長官による立法会解散、第7ステップが行政長官の辞職と特区政府の機能停止、第8ステップが全国人民代表大会(全人代)常務委員会による香港の緊急事態宣言で、中央政府が国家安全法を香港に直接適用。民主派リーダーを一斉逮捕。第9ステップが香港社会の街頭抗争がさらに激烈となり、鎮圧によって流血の惨事。香港市民がスト・ボイコット運動を発動し、香港社会が停止状態に陥る。第10ステップが西側諸国による中国共産党への政治・経済制裁の発動となっている。」(香港ポストhttps://bit.ly/3qqTmoo
当局はこれを「国家政権転覆」の計画書だとして、それに賛同した予備選挙参加者らも逮捕。2月の公判では逮捕されたうちの47人が「結託して国家政権を転覆しようとした」容疑で起訴。これまでに12人が保釈されている。全員が公判中で最高刑は無期懲役となることから、以下に「闘争の記憶の活性化」のために名前と年齢(逮捕時)を記しておく。
戴耀廷56、區諾軒33、趙家賢34、鍾錦麟33、呉政亨42、關尚義79(不起訴)、袁嘉蔚27、梁晃維23、鄭達鴻32(保釈)、徐子見53、楊雪盈34(保釈)、彭卓棋26(保釈)、岑子傑33、毛孟靜64、何啟明32(保釈)、馮達浚25、劉偉聰53(保釈)、黃碧雲61(保釈)、劉澤鋒24、安德里34(不起訴)、黃之鋒24、譚文豪45、李嘉達29、譚得志48、胡志偉58、施德來38(保釈)、朱凱廸43、張可森27、黃子悅23、伍健偉25、尹兆堅51、郭家麒59、呉敏兒50、譚凱邦40、何桂藍30、劉頴匡27、楊岳橋39、陳志全48、鄒家成24(保釈)、林卓廷43、范國威54、呂智恆54(保釈)、梁國雄64、林景楠54(保釈)、柯耀林49(保釈)、李芝融40(不起訴)、岑敖暉27、王百羽30、李予信27(保釈)、鄺俊宇38(不起訴)、涂謹申57(不起訴)、余慧明33、劉凱文(不起訴)、李國麟61(不起訴)、袁偉傑(不起訴)  Wikipedhiaより https://bit.ly/3x1SMjd

<5> 著者がここで言う「民主主義左翼」とは、文革末期から80年代初頭にかけて登場した李一哲らを含む「社会主義民主派」のことであろう。「李一哲」は李正天、陳一陽、王希哲、郭鴻志らの共同ペンネーム。73年にガリ版刷りの「社会主義的民主主義と法制について」という小冊子を「李一哲」名で印刷し、尊敬する毛沢東に送付。文革中に中断していた全人代の第四期会合にあわせて執筆されたものだった。74年に要約版を大字報として広州市内に張り出し大きな反響を呼ぶ(結局、第四期全人代は75年1月に一度だけ招集されただけで、その後いちども会議は開かれず、第五期が78年2月に開かれて鄧小平路線が進められることになる)。中共中央から「反革命的文書」と批判され、省内各地で批判大会が実施されるが、当時改革派の趙紫陽が広東省第一書記だったということも関係したのか、批判を受けた当事者の李や陳らも批判大会の席上で正式に発言の機会を与えられ、むしろ聴衆の多くは当時の公式路線に批判的な「李一哲」らの主張を聞くために批判大会に参加したと言われている。しかし、75年に軍出身者が広東省第一書記になり「李一哲」らは「反革命集団」として逮捕・勾留された。文革終了後の78年に習仲勳(習近平の父)が第一書記になり再審の結果、釈放・名誉回復された。「李一哲」はスターリニズムのトロツキスト批判や中共のソ連批判などの影響を受けており、林彪らに対しても「新たな資産階級」「ファシスト」などと規定し、ソ連や東欧では「新たな資産階級」である官僚らが資本主義を復活させた、と規定するなど当時としては限界もあったが、「新たな資産階級」の復活を阻止するには社会主義的民主主義と法治こそが必要であるという進歩的な主張を展開した。この社会主義的民主主義は76年北京の春から89年民主化運動に至るまでの「民主主義左翼」「社会主義民主派」の理論的支柱のひとつとなった。工場労働者の王希哲は78年に釈放されてからも北京西単の「民主の壁」の広州通信員を務めたが、79年に民主の壁が弾圧され、王希哲らも逮捕され、81年に禁固14年の実刑判決を受けた。香港では76年北京の春から80年代初頭にかけて、トロツキストを中心とする少数の左翼グループも中国国内の異論派を支援した。79年に民主の壁が弾圧された後、中国国内の異論派との接触を図った香港トロツキストグループの呉仲賢が80年に中国国内で拘束され(協力者になることを中共当局に約束して香港まで戻り、一連のいきさつを組織に報告した後に除名処分となる)、翌年には王希哲の家族の支援のために中国国内に向かった劉山青が逮捕され、10年の禁固刑の判決を受け、91年末まで広東省北部の英徳市監獄で服役した。80年代以降の鄧小平-胡耀邦-趙紫陽による「改革開放」路線は、こういった「民主主義左翼」「社会主義民主派」を弾圧した荒野の上に進められる。だが民主主義を求める中国人民のたたかいは改革開放の経済熱のなかでも継続し、86年の学生運動という予行演習を経て89年の大激突に至るのである。

<6> 1919年に陳独秀が掲げた「民主」と「科学」とは、陳独秀が創刊した雑誌「新青年」に投げかけられた非難に応えた「『新青年』の罪状に対する答弁書」(1919年1月15日)に登場する。

彼らが本誌を非難するのは、孔教を破壊し、礼法を破壊し、国粋を破壊し、貞節を破壊し、旧倫理(忠・孝・節)を破壊し、旧芸術(中国劇)を破壊し、旧宗教(鬼神)を破壊し、旧文学を破壊し、旧政治(特権・人治)を破壊するという罪状ゆえにほかならない。これらの罪状は、本社同人はもちろん率直に認めてはばからない。しかし元をたどれば、本誌同人に本来罪はなく、ただ徳莫克拉西(Democracy〔民主〕)と賽因斯(Science〔科学〕)の両先生を擁護したからこそ、これらの極大の罪を犯したのである。……西洋人は徳・賽両先生を擁護するために、どれだけの騒ぎを起こし、どれだけの血を流したか、〔それによって〕徳・賽両先生はようやく彼らを少しずつ暗黒の中から救い出し、光明の世界へと導いたのである。われわれは現在この両先生だけが、中国を政治的・道徳的・学術的・思想的なあらゆる暗黒から救うことができると確信している。この両先生を擁護するためであれば、あらゆる政府の圧力、社会の攻撃や罵倒嘲笑、死刑や流血さえも、辞するところではない。
『陳独秀文集I』(長堀祐造ほか編訳、平凡社)より抜粋。

なお陳独秀については、その生涯をコンパクトにまとめたリブレット『陳独秀 反骨の志士、近代中国の先導者』(長堀祐造、山川出版社)がお勧め。

 


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