今日の一言 > TOP > 『イラン・パペ、パレスチナを語る』より
『イラン・パペ、パレスチナを語る』より
第一章 パレスチナの「民族浄化」
パレスチナ人の追放の開始(抜粋)
五月一五日をもってアラブ諸国との軍事衝突に直面することになるのはわかっていたので、ユダヤ人指導層はすでに一九四八年二月に、つまりはイスラエル国家の創設に先立つ三ヶ月前から、パレスチナ人の追放作戦を開始していました。それはある日、地中海岸に面する五つの村を排除することから開始されました。そして驚かされることには、イギリスは、まだ当時治安維持の責任を有していたにもかかわらず、干渉をせず、ユダヤ人たちが五つのパレスチナ人の村の住人を大小のトラックに乗せ、アラブ諸国との国境を越えて彼らを放逐するのを、やりすごしました。
私が話を始めるにあたって言及した会議は三月にもたれ、彼らはこっちの五つの村にあっちの五つの村にといったような散発的なやり方にとどまらず、パ レスチナ人全体を体系的に排除し始めることを決定しました。彼らは、この国土を一二の地域に分割し、おのおのの地域に軍の部隊を配置し、それぞれの部 隊に各地域のなかの町や村のリストを受け持たせることを決定しました。そし て彼らは、各村の人びとだけにとどまらず、都市や町の人びとまでも効率的に 排除しました。私の生まれ故郷でもそれが行なわれていたのです。彼らはある一日でハイファの町から七万五〇〇〇人の人びとを追放しました。一九四八 年四月二一日のことです。そして数日後には、ほぼ同数のパレスチナ人をヤーファの町から追放しました。イスラエル国家の建国を前に、三五万人のパレスチナ人が自らの家から追放されたのです。
このことが重要なポイントであるのは、今日のイスラエルの公式な立場では、 アラブ世界がイスラエルに対して戦争を仕掛け、パレスチナ人たちに退去するように呼びかけたために、難民問題が発生したのだ、とされているからです。 それに対して私が述べた出来事は、戦争以前のことであり、すでにパレスチナ人の半数が難民になっていたのです。そしてイスラエルは、残りの半分を追放するために、戦争を利用しました。ですから戦争によってパレスチナ人が難民になったのではありません。イスラエルがパレスチナ人に対する民族浄化を企図したことによって彼らは難民になったのであり、戦争はパレスチナ人の難民の原因なのではなく、そうした結果を生み出すための手段だったのです。
建国の前後を通じて、イスラエルは合計で約五〇〇の村、一一の町を破壊し、 ほぼ一〇〇万人のパレスチナ人を難民としました。それと同時に、戦争の終結を前に、いくつかのアラブの部隊がイスラエルとパレスチナに入ってきました。 しかしイスラエルは、一方で侵攻してきたアラブ軍に対して戦い、もう一方で 民族浄化作戦を遂行するのに十分な軍事力を保持していました。
追放されることをパレスチナ人が拒んだ場合にはいつでも、虐殺、レイプ、略奪、投獄が伴いましたが、実際に数千ものパレスチナ人が投獄され、さらに強制労働収容所へと送り込まれ、一九四九年の中頃まで留め置かれることになりました。
【語り】 イラン・パペ(Ilan Pappé)
1954年、イスラエル生まれ。エクセター大学(=イギリス)歴史学部教 授。第一次中東戦争(1948年)に関する論文で、1984年オックスフォー ド大学博士号を取得。帰国後、ハイファ大学政治学科講師に就任し、シ オニズムを批判する立場からの研究を積み重ねる。その研究に対するイスラエルの学界からの反発と、パレスチナ人学生の論文評価をめぐる学内での対立により、ハイファ大学を追放されかかるが、国際的な非難の声を受けて処分を覆す。反シオニスト左派のオルタナティブ・インフォ メーション・センターが発行する英字雑誌 News from Within にも頻繁 に寄稿・発言するなどの活動も精力的に行なっている。
『イラン・パペ、パレスチナを語る 』定価2800円+税 ISBN978−4−8068−0583−0 C0031
- 『イラン・パペ、パレスチナを語る』増刷ができました (2023-12-18 16:29:57)
- 国境にて─イスラエル/パレスチナの共生を求めて (2023-11-15 20:10:48)
- 『イラン・パペ、パレスチナを語る』より (2023-11-07 17:14:33)
- 「お江戸ののれん」の著者、鈴木進吾さん (2019-11-01 21:39:25)